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木之本町金居原は現在、国道303号沿いの滋賀県側最奥集落です。しかしかつてはその奥にも集落がありました。本土倉(または奥土倉)にあった土倉村です。
この土倉村、杉野村(現:長浜市木之本町杉野)に属し、明治初めごろまで「土倉釜子村」と呼ばれていました。
本日は、この土倉村と本土倉鉱山の跡を訪ねてみたいと思います。
さて金居原集落を過ぎ旧道に入り走ること1km弱、土倉谷を渡るとこの看板があります。
ここは本土倉に対して、出口(でこ)土倉と呼ばれる地。ここを左折すればすぐ、有名な土倉鉱山跡ですが、ここは帰りに寄ることにします。
ここの北端にあるこの石碑(土倉鑛山鑛友顕彰碑)の前にバイクを停めて歩くことにしました。
歩くことしばし。水路隧道のような施設があります。
ここはしかし、かつてはトロッコの走る坑道であったとか。
そこから10分ほどで、分岐の橋に到着。ここを右にとればいいわけですが、以前はこんなふうに封鎖されていたようです。
いわゆる、警察の規制線というやつ。これは突破できません
![]() [セロ尾さんの記事より無断拝借]
現在はというと、チェーンがかかってますが…
10mも行かないうちに、黄色の部分の路面がごっそり流失しております。結局乗り物はここまで、あとは歩きで。とはいえもう500mありませんから歩いても知れてます。ということで、本土倉に到着しました。
植物が繁茂してわかりにくいですが、右側に鉄製の囲いがあります。覗いてみると5~6m下を水が勢いよく流れています。これが水路隧道でしょうか。こうした明り取りのような設備はこの手前にもあります。
向かって右側には住宅があったと思われる平坦地が広がっています。
所々に石垣が残りますが痕跡はそれだけ。草のせいもありますが、瓦一枚、陶器の欠片一つも見当たりません。人が去って80年近くなるので仕方ないですかね。
鉱山神社の鳥居やお地蔵さまも発見できませんでした。
こんなところに数百人、一説によると800人もの人が住んでいたとはにわかには信じがたいことです。
さて今度は左側を見てみましょう。
どうもわかりにくい写真ですが、本土倉鉱山跡です。明治43年の操業開始から昭和17年出口土倉に移るまで30年以上使われていた施設です。
急斜面に何層にも施設が残っているので、ちょっと見学に行ってみたいと思います。
こちらは1段目。
2段目。索道のアンカーのような設備。 3段目
壁から突き出ているのは、トロッコ用と思われる軽いレール。
4段目。同じような風景ですな(笑)
5段目。
ここにも先ほどのレールが。今度は地面に刺さってます。
そして6段目。もうすぐ上は尾根です。ここが最上段のようですね。
少し、横移動して登りとは違うルートで下ります。かなりな急斜面を無理やり登ってきたので下りるのも大変そうですが…また違うものが見つかるかもしれません。
何かの基礎部分か?
コンクリートがボロボロです。
何かよくわからない構造物、というか廃墟の一部。 そして、3段目から見た丸い貯水槽。この左手20mほどのところから登り始めたことになります。
この丸い貯水槽の下には導水路があり
鉄板の図。白飛びが激しいのはご愛嬌ということで…
やはり80年も経つと、残っているものもあまりありません。
そろそろ切り上げることにしましょう。
帰りに少しだけ出口土倉跡に寄りました。おなじみの写真を一挙掲載して終わりにしたいと思います。
おしまい |
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