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山中廃徊記

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太平寺集落の基となるのは、宝亀九(七七八)年の伊吹山太平寺の建立です。
その後八五一年ころ、三修という僧により定額寺(じょうがくじ-まあお寺の格付けみたいなもんですかね?上から4番目に格が高い)に列せられ、太平護国寺を名乗ることになります。
で、このお寺の名前をそのまま集落名にしたと、先ほどの石碑にも書いてありました。
イメージ 1その後、北近江の守護、京極氏によりこの地に、太平寺城(霞ヶ城)が作られます。

長年伊吹町の歴史を研究されてきた、故E・H先生に以前お聞きしたところ、この石碑のある広場のあたりにお寺が、広場の上の太平神社のさらに上のあたりに城があったそうです。

城はやがて南の上平寺に移り、お寺は戦乱や内紛によりことごとく灰燼に帰した…との記述が季刊「湖国と文化」にあります。
太平寺集落はなかなか歴史があるのですね。
そんな太平寺集落ですが特異な立地ゆえに日々の営みは大変だったろうと思います。
再び昭和22年撮影のこの航空写真をご覧いただきたい。戦争によりわずか15戸の村で7名の戦死者を出し、残った村人が総出で下に通じる林道(今の鉱山林道)を建設した…というそんな時代の写真です。
イメージ 2

集落の背後の雑木林を抜けると白ジャレと大富抜けに挟まれた山肌に整然と区画された畑のようなものが見えないでしょうか。たぶんですが、これらはソバ畑であったと思われます。太平寺のソバは大変味が良かったそうで、畑は8合目付近まで広がっていたと伝えられています。

昭和36年に大阪窯業セメントが伊吹山を完膚なきまで破壊すべく活動を始めてから
2年後当地は採石場と隣接することになり、危険であることから鉱山に土地を売却し、春照に集団移転したと石碑には書かれていました。
まあセメント屋による地上げでしょう。

かくしてこの地に初めて寺ができてから1200年余りにわたる村の歴史に幕が下ろされるわけです。
そしてそれから50年余りが過ぎました。この写真の子供たちはその後どんな人生を送られているでしょう?

イメージ 3

イメージ 4

たまたま迷い込んだ部外者としては、ちょっと気になるところですね。

                         「天空の村」〜太平寺 終わり





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