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私にとって、榑ヶ畑はいつでも単なる通過地点でした。
最近、「彦根道」なるものがかつて存在し、その出発点がこの榑ヶ畑であったことを知りましたが、相変わらず榑ヶ畑については何一つ知りません。 そこでこの地を「徹底的に」散策してみたいと思って、8月の暑い最中&ヒル全開のこの時期に敢えて訪問してみました。 結果、なかなか興味深い事実がいろいろとわかったのです。私の思い違いやら… さて、今回のお供は二枚の古い地図。
一枚目は大正13(1924)年5月30日発行、大日本帝國陸地測量部の25000図で、二枚目は昭和43(1968)年、滋賀民俗学会発行の「湖東・湖西の山村生活 離村部落の民俗報告」より抜粋したものです。
この二枚には下の最新の地形図の青で示した点線路がありません。
今まで、この青線を彦根道と紹介してきた私としては、えらいこってす。
「榑ヶ畑見取図」の、光顕寺(図中の"光願寺"は誤植)から38番のお宅に至る道に重なるようですが。
この青い山道、地図に描かれたのはいったいいつのことでしょうか?
国土地理院の図歴を見ると、昭和43(1968)年改測版からでした。
廃村となって10年以上後のことです。これでは彦根道とは言えません。
この青線の道も最終的には彦根道に合流するという意味では、彦根道の一部と言ってもいいかもしれません。
しかし本道でないことは確かです。
いつも参考にさせていただいている「e-konの道を行く」の彦根道の記事を再度読み返してみます。すると・・・
[国土地理院 大正13年5月30日発行 1/25000地形図・彦根東部より一部抜粋]
赤丸で囲った所に太い点線で描かれている道、これが彦根道であったようです。この道はまた「榑ヶ畑見取図」の左下、「至墓地」と書かれた道でもあります。
「湖東・湖西の山村生活 離村部落の民俗報告」によると榑ヶ畑では『火葬であって墓は作らない・・・現在ある墓は第二次世界大戦中に建てられたものである』という記述があり、その写真が添えられています。
これについては「--民俗報告」にヒントとなる記述があります。
つまり、火葬は『小字綾戸のサンマイ』で『桑の木の割木』を使い行ったと。
火葬場なら(臭いの問題で)村より標高の高い位置にあって、ある程度の広さがあっただろうと思います。
やがて大正末ごろ車道が通じ、ここでの火葬が行われなくなるにつれ墓地に転用されていった・・・と考えるのは自然であると思います。
ということで次回、まずは墓地に至る道とその墓地、そしてその傍を通っていたであろう「真の」彦根道を探して、榑ヶ畑を徘徊します。
つづく |
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