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山中廃徊記

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前回も登場したこの地図ですが
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「-民俗報告」の見取図ではこのようになります。
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図中の番号は以下の写真の位置を表します。


この模様の水瓶、榑ヶ畑のトレンドだったのでしょうか。別の場所でも見かけています。
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朽ち果てた鉈が同じく朽ち果てた木にささったまま・・・
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このような広い平地が続いております。
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ポンプ小屋の跡?と思しき所に出てきました。
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見取図によれば、この辺りにお寺があったことになっています。
この立派な石垣がそうかもしれません。
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そしてその後ろ、見取図ではここから「山道」と記載されている場所。ここにも立派な石垣がありその上はかなり広い平坦地。二つ目のお寺の跡と思われます。
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少し下って、「元の学校」のあたりに転がっていたのは・・・
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懐かしや〜スプライトの1Lビン。しかも初期の寸胴タイプです。おそらく1976年頃のもの。

こちら、昭和23年に醒ヶ井に移転されたお宅の跡にあるお墓。これも日付が「-民俗報告」の記述と一致しません。
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他でも見かけたデザインの水瓶がここにもありました。
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「かなや」から汗ふき峠にいたる途中から分岐する道。昔の集落道の一つと思われます。
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このあと、汗ふき峠をへて「かなや」前にもどり見取図の青線のように散策しました。

正式に廃村となったのは昭和32(1957)年ですが、その20年以上前から離村化が進んでいたとのこと。すでに80年以上が経過し残っているものも、瓦の破片のみという状態です。

今回、散策してみて分かったのは登山道沿いの狭い範囲が榑ヶ畑のすべてではないということでした。特に東側斜面は4段ほどの雛壇状平坦地が広がり、多くの住宅があったことがうかがえます。
明治11(1878)年には、51戸・259人もの人が住んでいた、というか住むことができる広さがあったということです。

そんなわけで、なかなか散策しつくせません。今後も継続して調べ倒したいと思っております。

おしまい





と、思ったけど次回「おまけ編・歩いていたらこんなん見つけました」の巻でおしまいといたしたいと思います。
しつこく、つづく

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