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山中廃徊記

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先日、いったん終了した「行者谷の謎を探る」シリーズですが、本日少し進展がありましたので補足させていただきます。

先ごろより、問題の車道記号について国土地理院にお問い合わせをしておりましたが、本日電話で丁寧な回答を頂戴しました。
結論から申しますと…
この地図の基は、確かに43年改測版25000図のようだが国土地理院が発行したものではなく、多賀町独自で作成されたものではないか
ということです。ケッパコさん、パクっていいですか Orz
何だっそら
何だっそら
何だっそら
何だっそら
耐えられない!!

個人的にも25000図にしては表示範囲が広すぎる(「霊仙山」と「彦根東部」にまたがっている)と思ってましたが、どこかでつないでるのだと考えていました。

お電話をいただいた担当者(基本図情報部専門調査官)の方によると地理院の43年改測地形図と比較して
○表示範囲が違う
○行者橋や権現橋という小さな橋名は入れることはない
○標高が記入されていないはずのところに記入されている(←これ重要)
などなど、根拠を示していただき町独自で作成されたものと考えられるとのことでした。
とくに3番目の「○○が記入されていないはずのところに記入されている」って…
私の思い込みレポはどうなる!おい多賀町責任者出てこいや〜ということで、町史を担当している、多賀町立文化財センターに問い合わせたところ、「昔の話なので、当時の担当者もすべて退職してますし詳しいことはゴニョゴニョ
このレポの前提となったあの地図が俄かに胡散臭くなってしまいました。
43年改測図の謄本を取り寄せておくべきでした。しかし今回は
多賀町にしてやられました

もう一点。今回参考にさせていただき大変お世話になった「e-konの道をゆく」のe-konさんより貴重な情報をいただきました。
五僧峠にある地理寮の測点標ですが、道を挟んだ向かい(北)側の斜面にもう一基あるとのこと。これは確認に行かねばと思っておるところです。
今後の進展からも目が離せない!!乞うご期待

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伊吹山中遺跡めぐり

伊吹山の南側にはたくさんのお寺や城の跡があります。この山が山岳信仰の対象であったことや、北国脇往還に面して交通・軍事の要衝であったからでしょう。
今回、山中のそれらの遺跡を巡ってみましょう。(これは2年前の記録です)
イメージ 1
地図中、緑は車道で赤が徒歩道になります。

弥高川沿いの市道を悉地院に向かって走り鉱山を過ぎたあたりから、この分岐を右へ行くと林道があります。
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ふだんはチェーンがかかっているので弥高集落でお願いしておくと終点の広場までバイクで行けるようですが、今回も例によって歩きです。
なお、この市道は鉱山のダンプの往来が激しいので要注意です。

歩きなので、途中この神山地蔵堂のあるところから少しショートカットします。
イメージ 6

カタクリやヒトリシズカが咲いてます。いい季節です
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林道終点の広場です。ベンチやトイレもあったりします。
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左の「弥高尾根道」と書いてある方向へ。快適な道を往くとほどなくこの「大門跡」です
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さらに5分ほどで広大な平地、弥高百坊跡です。アマナが咲いていました。
イメージ 5

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毎年、地元の弥高の方々が草刈りなど手入れをしてくださっているそうで、気持ちのいいところです。昼飯や昼寝に最適です。眺めもいい。
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↑彦根方面 ↓関ヶ原方面(山しか写ってない…)
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ここから上平寺尾根への横崖道に入り10分も歩くと入定窟があります。
ちなみのこの左側に小さな谷がありますが、行者谷というそうです。
イメージ 9

ここから南へ5分ほどで、宝篋印塔がある小さな広場。
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弥高寺はかなり大規模なお寺だったのですね。
さて寺跡に戻り尾根をたどります。途中、林の間から三合目の建物が見えます。
イメージ 12

30分も歩くと、弥高尾根と上平寺尾根の合流点です。
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ここから上は中尾根と呼ばれ山頂の山小屋あたりに出られます。また五合目への道もあります。今回は左へ(振り返っての撮影なので登ってきたら右へ行くことになる)上平寺尾根をたどります。約30分で上平寺城跡です。
イメージ 14

ここもやたら広い平地です。向かいにはドライブウェイも見えてます。とくに遺構もなく見るべきものもありませんが、休憩や昼寝にはうってつけですね。
あとはこの上平寺尾根を下り、途中伊吹神社方面への道をたどって神社横に下りれば
遺跡めぐりの旅はおしまいです。
全体によく整備された道で、体力に自信のない方でも楽しいハイキングができるのではないかと思います。

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行者谷の謎を探る 6

今回のお題は行者谷に、地図にある車道はあったのか?ということでしたが、いつのまにやら行者谷の内部の様子の話になってしまいました。
まあそれはそれでいいと思うのですが、最後にこのお題についてまとめておきます。

謎 :車道記号の道は存在したのか
結論:存在しなかった(少なくとも出合いから約500mの間は)
根拠:出合い付近は幅5mほどの狭い廊下状の地形であること。ここに車道を通す     
とすると、①右岸の岩盤を抉るか②桟道を設けるあるいは③谷を埋め立てる  
ぐらいしか考えられないが、①についてはその痕跡は全く無いし、②も人用ではなく車用であれば相応の杭の跡(岩に穴などの)があるべきだがそれも無い。
③は論外。この写真のように、ふだんは涸れ谷だがひとたびイメージ 1
雨が降れば滝となり淵ができるような谷を埋め立てるなどありえない。環境問題とはまた別の話です。右岸は△589mまで直登して道の痕跡がないことを確認した。左岸についても5mほど登ってみたがやはり痕跡はなかった。なぜたった5m?と思われるかもしれないが、それより上に車道があっても橋からのつながりが描けないから。
そして、もう一つの大きな理由は、必要ないから多少効率が悪くても、索道やモノレールで代用できるじゃないかと思うわけです。

車道とはいえあくまで作業道。役目を終えれば放棄されるものです。この険阻な地形を克服するほどに費用をかける性質のものではありません。権現谷林道とは自ずとその目的も性格も違うのです。


結局、地図にある車道記号は独断と偏見により間違いであるということになりました。
しかし、専門的な知識を持った国土地理院の技官がそんな間違いをするでしょうか。
と思うかもしれませんが、これがけっこうあるんですね。
山登りをしていると、実際と違う地形や現地にないものが描かれていたり、逆に目の前にあるものが描かれていなかったり…
まあこれは致し方のないこと。くまなく現地調査することなど不可能だし、時とともに変化もするでしょうしね。
地図を作ってくださっている方々にはただただ感謝するのみです。
むしろ小さな谷の1個の記号にこだわっている方がヘンではないかと思います。
個人的には今後もこだわっていきたいと思ってますけどね。

さて、この石碑は行者谷からそう遠くない五僧峠付近にあるものです。国土地理院の
もととなった内務省地理寮がこの地に置いたものです。地理寮は明治7年に発足し、明治10年に地理局として発展解消するまで、わずか4年間だけ存在しました。
大変貴重な石碑ではないかと思います。
イメージ 2

林道もない時代、こんな山奥にどのようにしてこの大きな石碑を運び設置したのか。
この地理寮から参謀本部陸地測量部を経て国土地理院となり、名前は変わっても「ただ地図を作るためだけに」人跡未踏の山野を駆け回り測量を続けてこられた方々に深い尊敬と感謝の念をこめて、次の言葉をお贈りしたいと思います。

「細かいミスはいいじゃないか、大勢に影響はないよ」

                         行者谷の謎を探る〜おしまい

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行者谷の謎を探る 5

前回までの各種の資料や現地調査を基に考えると、行者谷に車道はなかった(少なくとも出合いから500mほどは)と結論せざるをえません。
最大の根拠は、地形の険しさとその地形を改変して車道を作ろうとした痕跡がまったくないことです。
ここに車道の記号を入れたのはなぜか、ということについて国土地理院に問合せ中ですが、まだ返事はありません。

そこで、ちょっと先走り気味ですが、考え得る行者谷の当時の姿について次の地図にまとめてみました。
あくまで個人的な空想の地図であって、真実の姿ではないかもしれませんが、また一方でそんなに遠く乖離した姿でもないと思っているのですが…

イメージ 1

①〜④は空中索道があったと思います。ただ③と④についてはこのような林業用の
モノレールであったかもしれません。イメージ 2
施設・撤去が容易で痕跡を残しにくいという利点があるので、全く痕跡がなくても不思議ではないですね。
その奥の林道か軌道跡と推測される部分もあるいはこのようなモノレールであったかもしれません。なにせ、入り口がこんな状態ですから奥に林道があっても車を持ち込めないので。
緑色の軌道跡に関しては、路盤が現存しておりレールなども残されているのでその存在について疑問の余地はありません。そして、青と緑を結ぶのがこの廃橋です。イメージ 3

「e-konの道をゆく」に、この辺りを管轄する彦根市犬上郡営林組合に問い合わせた結果が述べられています。それによると…
『山中に残るレールやワイヤーなどは、やはり木材を運び出すための索道など諸施設のもので、これも担当業者が伐採する場所の状況に応じてその都度』作ったものだそうです。痕跡が残りにくいわけです。

林道であったか軌道であったか、モノレールであったかは今となってはわかりませんが、次回探索時に探してみようと思っています。

と言いつつ、次回へ〜今度こそ最終回の予定


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行者谷の謎を探る 4

ここに2枚の航空写真A・Bがあります。ともに行者谷付近が写っているのでほぼ同じ範囲、縮尺で切り出したものがその下の①・②です
①・②には各種資料から推察される項目を描き込んであります。
(写真は国土地理院図歴閲覧サービスより転載)

A.昭和23年 米軍撮影
イメージ 3

B.昭和42年撮影
イメージ 4

イメージ 1

「e-konの道をゆく」の記述通り権現谷林道は行者谷の手まえの広場のようなところで終わっているように見えます。ところが、その先もずっと続いているようにも見えます。しかしこれは白い石灰岩の涸れ谷が道に見えているだけです。なぜそう言えるのか、答えは簡単です。権現谷林道はこんなに太くないのです。
左の方の林道と河原とを示した部分、拡大してみると河原の幅の方が3倍近くあるのがわかります。
そして行者谷でも、やはり白く太い道があるように見えますが、これも河原です。
時は昭和23年、まだ大規模な伐採の行われる前の話です。この谷もほぼ手つかずであったことでしょう。

イメージ 2

やはり河原と林道の幅の違いに留意してください。
昭和42年といえば盛んに材木の切り出しが行われていた時期で行者谷にもいろいろ変化があります。出合いのaと、589m独標b(以前の現地調査で多数のワイヤーが残されていたところ)に集積場が設けられています。c地点にも集積場があったようですが確認できませんでした。e-b間にも多数のワイヤーが残されていました。
dは現地調査の際最後に休憩した地点です。この近辺にもワイヤーが随所に放置されています。そしてこの辺りから上流は両岸がやや緩やかになり、所々に林道か軌道の跡とおぼしき道形が見られるようになります。

行者谷が水平道と交差するところには橋が残されていたのでその両側には道があったはずであり、道形が残っていたとしても特に不思議なことではありません。

なお楕円で囲った部分、中央下から右上に横切るごく薄い直線は、多賀町史附図に点線路として描かれているものと同一と思われ、未確認の集積場cに向かっています。
現地の地形から、徒歩道とは思えず索道だと考えております。

一枚の古い地図から始まった今回の謎。あの車道記号の道は存在したのか?
a-d間は存在しなかったがそれより上流には存在したと思っています。
存在したと思う理由は、現に道形が残っているから。
存在しないと思う理由は、その痕跡が全くないから。
次回、権現谷の真実(私が真実と考える「真実」というあやふやなものですが…)が明らかになる!!かも 乞うご期待



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