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この時期の花 コアジサイ
とても良い香りがします。 |
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廃徊記
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いったいいつ頃のものでしょうか。
(年号はとくに断りのない限り昭和です
なお、今回の記事を書くにあたって、滋賀近辺の林道をこよなく愛しておられる「e-kon」様の主宰されるHP「e-konの道をゆく」を大いに参考にさせていただきました。快く引用を許可していただいた管理人様に感謝いたします)
手元にある地図の全体を眺めていると、年代を特定する手がかりになりそうな表記がいくつか見つかります。たとえば…
①「上石津村」と表記されている
②権現谷林道はまだ全線開通していないものの、落岩橋を越え国道306号まであと
およそ4.5㎞の地点まで描かれている
③等高線の間隔が10mなので
25000分の1図と思われる
①は牧田・一之瀬・多良・時の4村が合併し上石津村ができたのが30年。のちに町制を施行し上石津町となるのが44年。
これと③を合わせて考えると、43年改測図以前の地形図であると思われます。(この次の49年修正図では上石津町に修正されています)
②についてですが、「e-konの道をゆく」には次のように述べられています。
『まず昭和17年に妛原から行者谷付近までの2kmが開通。その後長い空白期間をおいて、昭和31年、32年度に白谷県有林まで、そして昭和40年から56年度の工事で国道306号線までがつながり、ようやく全線12.549kmが開通する』
するとこの地図は40年以前のものではないということです。
この条件を満たすのは、43年改測・45年発行のものだけです。
ということは43年当時、すでにここに橋があり車道があったということになります。
しかも仮設のものではなく、地図に載るほどに半恒久的な橋であり、道路であったというわけです。
62年刊行の「鈴鹿の山と谷 第一巻」の中で、著者の西尾寿一氏は「支谷(行者谷)の出合いには丸太が山のように積まれ」ていたと述べておられます。さかんに木材が切り出されていたようです。車道があったならば大活躍していたはずです。しかし同書ではまた「支谷には杣道があり奥まで続いている」とあるのみで、車道については一切言及されていません。これはいささか不自然ではないでしょうか?
と、またまた疑問を残しつつ次回へ
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ではまず恒例(?)の現地調査をすることにしましょう。探索範囲は下の地図の赤線部分。
出合いから①までこんな感じの谷です
地図が正しいとすると、谷に沿って右岸の5mほどの高さに車道があったはず。
そのような痕跡はありません。下から見てるだけではわからないかも…ということで
①から右岸の△598mのピークに直接登ってみることにします。
とはいうものの、ここ、距離は280mほどなんですがその間に223mも高度を稼がなければならないのです。苦手な算数の計算をしてみると角度はほぼ60°!
体感的には垂直です。写真ではそうは見えませんけどね。
途中、左右をキョロキョロしてみますがやはり痕跡なし。ただ古いワイヤーが随所に残されています。
やっと△598mまで来ました。④の地点です。
なかなかいい感じです。ヒルが居そうなので昼寝はしてません。
で、ここには残置ワイヤーがたくさんあります。
そこである推論ができるわけですが、それはまた後程。
さてここを再び降りるのはちょっと勘弁…なので、このピーク北側の水平道を利用して③の地点まで移動します。この水平道、レールの残骸なども残っており軌道跡であったといわれています。ほぼきれいな状態で残っています。
③に着きました。行者谷の奥、重谷と呼ばれるところです。かなり広い平地ですね。
そこにあるのが、どこかで見たようなこの廃橋です。
先を急ぎます。今度はここから行者谷を下ります。
二俣に出てきました。②の地点です。
このあたりは林道跡とおぼしきものが所々に残ってます。東のリョウシ、コザト方面にもその痕跡があります。この写真ではわかりませんが。
さらに下ってここで休憩。もう少しでさっき別れた①地点です
この辺りにも残置ワイヤーが散見されます。
で、間もなく無事に戻ってまいりました。
どうでしょう。車道があったように思えるでしょうか?
と、疑問を呈しつつ次回へ続く
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今回話題にしたいのは、行者谷。
林道マニアの方ならよくごぞんじの、権現谷林道の途中にあります。
行者橋と権現橋の中間、元行者窟のそばに朽ちかけた木の橋が架かっています。
これを渡ると、コンクリートで舗装された小広場があります。これが権現谷の支谷、いわゆる行者谷の入り口になります。
権現谷林道をご存知の方なら、このあたりは両岸が切り立った岩で、この林道中最も景観が優れた場所であることに異論はないかと思います。以前、この先の白谷でフランス人に遭遇されたあるお方は、この景色を堪能する余裕はなかったと述懐されておりますが。
これは行者橋付近です。両岸とも垂直の壁ですね。そしてしばらくすると見えてくるのが、行者谷への入り口となるこの木橋。
渡ると、そこは行者谷。やはり両岸が切り立った狭い谷です。
さて、いったい何が「謎」なのかと言うと、下の地形図をご覧いただきたいのですが…
赤丸部分を拡大したものが次の図です
行者谷の入り口に橋の記号が描かれていますが、その先右岸に沿って自動車道の記号が描かれていますね。現地に立ったことのある方ならわかっていただけると思うのですが、これはいくらなんでも不可能だと思うのです。
この立地で車道は無いと思うのですね。橋を渡ったらすぐ上の写真のような両岸が切り立った狭い谷が始まるわけですから。
この車道ははたしてほんとうに存在したのか、というのが
今回探るべき謎なわけです。
以下、次回へ…
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太平寺集落の基となるのは、宝亀九(七七八)年の伊吹山太平寺の建立です。
その後八五一年ころ、三修という僧により定額寺(じょうがくじ-まあお寺の格付けみたいなもんですかね?上から4番目に格が高い)に列せられ、太平護国寺を名乗ることになります。
で、このお寺の名前をそのまま集落名にしたと、先ほどの石碑にも書いてありました。
長年伊吹町の歴史を研究されてきた、故E・H先生に以前お聞きしたところ、この石碑のある広場のあたりにお寺が、広場の上の太平神社のさらに上のあたりに城があったそうです。
城はやがて南の上平寺に移り、お寺は戦乱や内紛によりことごとく灰燼に帰した…との記述が季刊「湖国と文化」にあります。
太平寺集落はなかなか歴史があるのですね。
そんな太平寺集落ですが特異な立地ゆえに日々の営みは大変だったろうと思います。
再び昭和22年撮影のこの航空写真をご覧いただきたい。戦争によりわずか15戸の村で7名の戦死者を出し、残った村人が総出で下に通じる林道(今の鉱山林道)を建設した…というそんな時代の写真です。
集落の背後の雑木林を抜けると白ジャレと大富抜けに挟まれた山肌に整然と区画された畑のようなものが見えないでしょうか。たぶんですが、これらはソバ畑であったと思われます。太平寺のソバは大変味が良かったそうで、畑は8合目付近まで広がっていたと伝えられています。
昭和36年に大阪窯業セメントが伊吹山を完膚なきまで破壊すべく活動を始めてから
2年後当地は採石場と隣接することになり、危険であることから鉱山に土地を売却し、春照に集団移転したと石碑には書かれていました。
まあセメント屋による地上げでしょう。
かくしてこの地に初めて寺ができてから1200年余りにわたる村の歴史に幕が下ろされるわけです。
そしてそれから50年余りが過ぎました。この写真の子供たちはその後どんな人生を送られているでしょう?
たまたま迷い込んだ部外者としては、ちょっと気になるところですね。
「天空の村」〜太平寺 終わり
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