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山中廃徊記

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墓地を確認できたことに満足して先に進みます。
墓地の横の峠。
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ここまでは、迷うことのない広い道が残っていました。
先へ進みましょう。
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こう来たところでもう一度倒木をCutした部分を通過。
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切り口が比較的新しそうです。
それにしても、道はとても良い状態です。
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この辺りに来ると、右手下の方に林道が見えてきます。
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そして林道に出ました。
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榑ヶ畑線と支線の分岐点、三谷の標識より20mほど榑ヶ畑寄りの地点です。

さらにここから、当時はなかった林道に重なる細い山道を通り、柾板峠、落合方面に通じていたのが「真」彦根道だったのでしょう。


これにて、墓地と彦根道の探索はいったん終了とし榑ヶ畑に戻ります。
もちろん彦根道経由で。

さて、今度は集落の東側の山中(下の図、赤い部分)を散策してみたいと思います。
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「離村部落の民俗報告」によると『昭和15,6年ころになると本格的な移住』になりだし『榑ヶ畑の家を解体し』醒ケ井の移住先に運んだということです。
現存する家屋は2軒。22番の、県内某山岳部の山小屋として使われているお宅と、23番の「かなや」のみです。あと、完全に倒壊したお宅(16番?)が1軒。

そのほかは土台の石垣を残すのみで、建材は残されていないので「--民俗報告」の記述は正しいものと思います。

ということで、これから散策しようとしている東側斜面には何も残っていない可能性大です。

ではまずスタート地点の八坂神社前に行ってみましょう。
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こちら、今では林道に面し妙に明るい雰囲気ですが、4,5年前までは鬱蒼とした植林地でした。
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赤丸のあたりに井戸があり、細い山道が暗い森の中に延びていました。上の見取図の
旧道と記されている道で、昼坂(ビンサカ)峠を経て上丹生に通じていました。
そして鳥居の前はちょっとした広場になっており、かつて学校(分教場)があったそうです。

こんな所に林道ができるとは思っていなかったので、当時の写真を残していなかったのは悔やまれるところです。

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さて、上の地図の緑線のように歩いてみました。行ったり来たりで線がぐちゃぐちゃですが…

残念ながら大した発見はございませんが、次回に続く

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ここが墓地であったという、決定的な証拠となるようなものはないかと、丘の周りを調べてみました。
この辺り、丘を頂点とした4~5段のひな壇状になっております。
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こんな感じ
各段の側面は、石垣ががっちり組んであります。
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何らかの施設の跡地であることは間違いありません。

うろうろしているとこんなものがありました。何かの台座のような感じ。この上にお墓がのっていた?
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この横には・・・わかりにくいですが、真ん中が窪んでいて左右に石組みが施されています(右端の背の高いのは自然石です。石組みではありません)。
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ちょうどBBQの網を載せる竈のような感じ・・・
炭焼き窯の跡のようにも見えますが、墓地で炭焼く奴はおらんやろ、と思うのですよ。

この広いひな壇を上から下まで、30分ほど歩き回りました。しかし最初のお墓以外墓地であったという痕跡はありません。

諦めてただ一基のお墓の前に戻って来ました。
お墓の横から彦根道方向を眺めていたとき・・・

!!!
ああああった〜かも
下の写真、赤丸部分にやたら丸い苔の塊が見えます。この辺りにある石灰岩ならもっと角ばっているはず。あきらかに人工物に苔が生えている感じです。
最初にここを通った時は、まったく気が付きませんでした。
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近寄って見てみると
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間違いなくお地蔵さまやら五輪塔、宝篋印塔です。ミニサイズですが。
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これを探していたのです。「離村部落の民俗報告」に載っていた『榑ヶ畑・墓地』というキャプションの付いたこの写真のものと同一です。
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[滋賀民俗学会 湖東・湖西の山村生活 離村部落の民俗報告より転載]
これだけたくさんあれば、たとえ墓石を移転先に持って行ったとしても、いくつかは残っているはずだ、と踏んでいたのです。

あるいは太平寺のように一か所にまとめてお祀りしてあるはずだと。

さらにこの古い写真の右上に写りこんでいる、大変特徴的な大きな洞(うろ)を持つ樹に注目していただきたい。

なんとこの樹が枯れて腐りかけながらも残っていたのです。その50年後の姿です。
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場所は、先ほどのお墓のすぐ横。そしてその前には石仏たち。
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樹と石仏は今も50年前と変わらずに同じ場所にあったのです。古い写真の左隅に写るお墓は、存在していません。現在ただ一基のお墓が当時もあったかどうかは写ってないのでわかりません。

ともかくこれで、この場所が榑ヶ畑の墓地であったことがはっきりしたわけです。



次回、「真」彦根道探しはまだ続きます。 

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一人で祝!! 7777人

最近めでたくキリ番達成された方々。
セロ尾さん;50,000人
ケッパコあーやんさん;88,888人
クイックさん;200,000人 等々

これら諸先輩方に負けてはならじと、頑張って(嘘)ようやくオール7が揃いましたのでご報告させてください。
みなさま方とは桁が一つも二つも少ないのは、目を瞑ってくださいね(笑)
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7777人達成!苦節14箇月目のことでございます。

このペースで行くと・・・
セロ尾さんの50,000人に追いつくのは、7年と6箇月後。認知機能に問題が生じている頃ですな。
ケッパコさんの88,888人に追いつくのは、13年と4箇月後。手が震えてキーボードを叩けなくなっているでしょう。
クイックさんの200,000人に至っては30年後。・・・たぶん生きてないですわ。

なので当面10,000人を目指すのが妥当な線であろうかと思っております。

これすべて、みなさまのおかげ。ありがとうございます。
今後ともよろしくお付き合いのほど、よろしくお願いいたします。

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何はともあれ、墓地に至る道とその墓地を探さねばなりません。
手がかりは、この古い地図のみ。
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[国土地理院大正13(1924)年5月30日発行1/25000地形図より抜粋]
集落の入り口あたりから北西に登って行きターンして南西に降りて行き、やがて現在の榑ヶ畑線かその支線に出るものと思われます。
新しい地図では、このターンするあたりが小高い丘状になっており、ここが墓地ではないかと睨んでおりますが…
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矢印の部分がその丘。


さて、旧い地図の登り口を探すのですが、新しい林道のおかげで斜面が削り取られ取り付くしまがございません。
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奥が榑ヶ畑ですから右手の斜面のどこかに入り口があるはずです。


林道が左へターンする場所にやって来ました。ちょっとした広場になっており奥の方へ登山道が別れるところです。
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位置的にはこの辺りだと思うのです。で、右手をよ〜く見てみると…
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有りました!道らしきものが。左は集落の一番手前のお宅跡に通じています。これで間違いないでしょう。

案の定、はっきりした良い道が残っています。
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この先に墓地が残っていればいいのですが。
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幅1mほどの山道を歩くこと10分ほど。道は左にターンして行きます。倒木が処理されているところを見ると、この道は現役なのでしょうか。
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倒木の上に乗っている細い木は、今回の山歩きのお供である杖です。長さは約1m。


この場所から右手を見ると、20mほど先に探していた丘。墓地があるならここと仮定していた場所です。
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!!
中央に人工物が・・・

3m四方ほどの大きな基壇です。お墓の跡でしょうか。それともここが「綾戸のサンマイ」と呼ばれる焼き場の跡でしょうか?

そして丘に登ってみると、新しそうなお墓がありました。
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新しそうですが、裏にまわってみると
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『大正十五年十月建之 寶(宝)徳左衛門』

『湖東・湖西の山村生活〜離村部落の民俗報告』中の「墓を作るようになったのは第二次大戦中から云々」という記述とは齟齬がありますな…

まあともかくここは墓地であったということがわかりました。
しかし、もう少し証拠がほしい所なので、詳しく探し回ってみました。

結果は・・・その3に続く

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私にとって、榑ヶ畑はいつでも単なる通過地点でした。
最近、「彦根道」なるものがかつて存在し、その出発点がこの榑ヶ畑であったことを知りましたが、相変わらず榑ヶ畑については何一つ知りません。
そこでこの地を「徹底的に」散策してみたいと思って、8月の暑い最中&ヒル全開のこの時期に敢えて訪問してみました。

結果、なかなか興味深い事実がいろいろとわかったのです。私の思い違いやら…


さて、今回のお供は二枚の古い地図。
イメージ 3[国土地理院 1/25000地形図・彦根東部より一部抜粋]

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一枚目は大正13(1924)年5月30日発行、大日本帝國陸地測量部の25000図で、二枚目は昭和43(1968)年、滋賀民俗学会発行の「湖東・湖西の山村生活 離村部落の民俗報告」より抜粋したものです。

この二枚には下の最新の地形図の青で示した点線路がありません。
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今まで、この青線を彦根道と紹介してきた私としては、えらいこってす。

「榑ヶ畑見取図」の、光顕寺(図中の"光寺"は誤植)から38番のお宅に至る道に重なるようですが。


この青い山道、地図に描かれたのはいったいいつのことでしょうか?
国土地理院の図歴を見ると、昭和43(1968)年改測版からでした。
廃村となって10年以上後のことです。これでは彦根道とは言えません。
この青線の道も最終的には彦根道に合流するという意味では、彦根道の一部と言ってもいいかもしれません。
しかし本道でないことは確かです。

いつも参考にさせていただいている「e-konの道を行く」の彦根道の記事を再度読み返してみます。すると・・・
[国土地理院 大正13年5月30日発行 1/25000地形図・彦根東部より一部抜粋]イメージ 4
赤丸で囲った所に太い点線で描かれている道、これが彦根道であったようです。

この道はまた「榑ヶ畑見取図」の左下、「至墓地」と書かれた道でもあります。

「湖東・湖西の山村生活 離村部落の民俗報告」によると榑ヶ畑では『火葬であって墓は作らない・・・現在ある墓は第二次世界大戦中に建てられたものである』という記述があり、その写真が添えられています。
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ではこの墓地ができる前、昭和の初めころまではここはどういった場所だったのか?

これについては「--民俗報告」にヒントとなる記述があります。
つまり、火葬は『小字綾戸のサンマイ』で『桑の木の割木』を使い行ったと。

火葬場なら(臭いの問題で)村より標高の高い位置にあって、ある程度の広さがあっただろうと思います。
やがて大正末ごろ車道が通じ、ここでの火葬が行われなくなるにつれ墓地に転用されていった・・・と考えるのは自然であると思います。

ということで次回、まずは墓地に至る道とその墓地、そしてその傍を通っていたであろう「真の」彦根道を探して、榑ヶ畑を徘徊します。

つづく

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